「ありがとう、ありがとう・・・
・・・・ありがとう、ありがとう・・・」
電話の向こうから聞こえてきたのは
絞り出すような母の声
それが私のきいた、母の最期の言葉になりました
2021年11月17日(水)
母が旅立ちました。
まず
母が旅立った際に支えてくださった皆々様、
本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
たくさん泣きました。
コンタクトが涙で汚れて見えなくなるくらい、泣きました。
でも、コントよりコントらしい
心底大笑いできた出来事も起きました。
大好きで尊敬していた母へ愛をこめて。
私自身の気持ちを整理する意味も兼ねて
母との別れについて書かせてください。
全ての始まりは、今年のお盆明け
久々に帰省できた2021年のお盆は、
いつものように母の身体に温熱器を当てたり
骨の調整をしたりしてケアをしていました。
今思うと、いつもと違うところがありました。
いつもだったら、ケアをした翌日は
「やっぱりやってもらうと違うよ。身体が動くよ。」
そう言ってくれる母でしたがあの時は違いました。
「少しは良いけど、やっぱりまだキツイわ。」
実は私が帰省する少し前に2回目のワクチンを接種していたので
私も母も、家族のだれもがその副反応だと思っていたのです。
そのまま私は8/15に下関に戻りました。
そして8/17に母が緊急手術をしたと連絡があったのです。
そこで癌が見つかりました。
入退院を繰り返し、
やっと治療方針が決まった直後のことでした。
「伝えたいことがあるから、少し長めに帰ってきて欲しい」
そう言われたので、スケジュールを調整し
11/25~28まで帰省する予定を組みました。
11/8に再入院した母も
「恭子が帰ってくる日までに退院できるように頑張るからね」
そう電話で話をしていました。
「癌という病気の唯一良いところは、気持ちの準備が出来るところ」
友人に教えてもらったのは、その頃でした。
想像以上に早く訪れた「その日」
11/16(火)
午前中、母から電話がありました。
でも仕事中だったので着信だけ確認し、電話には出ませんでした。
仕事を終えて母に電話をしましたが、母は出てくれません。
数分後、かけなおしました。
今度は出てくれました。
「ありがとう、ありがとう・・・
・・・・ありがとう、ありがとう・・・」
絞り出すような声で、「ありがとう」を何回か言った後、
電話は切れました
これはただ事ではない!
急いで父に電話をしました。
同じような電話が兄にもあって、兄が病院に向かっていると。
父も様子がわからず、病院からの連絡待ちの状態でした。
その日の夕方、兄からの電話で
25日を待たずに、30分でも早く帰ってきた方がいい、と。
事情を話してすべての仕事をキャンセルさせていただき
翌日一人で実家に戻りました。
絶対私が行くまで母は待っていてくれる!
そんな確信がありました。
自宅で待っていてくれた父と一緒に病院へ。
少し落ち着いてきているとはいえ、まだまだコロナ渦です。
県外モノの私の面会は10分にも満たない時間でした。
それでも、看護師さんが相当頑張って下さったのだと思います。
数分でも会えることに感謝をするしかありませんでした。
母は、待っていてくれました。
しゃべれないものの、意識はしっかりありました。
私を見て涙を浮かべました。
本当はちゃんと自分の口で伝えたいことがまだまだたくさんあったはず。
それは叶いませんでした。
私からの一方的な話にはなりましたが
手を握り、精一杯の感謝の気持ちを伝えました。
母の娘で良かったこと
待っていてくれてありがとう、と。
すぐに面会終了の時間がやってきました。
この後は、たとえ急変したとしても、もう私は母の病室に入ることが許されませんでした。
病院内にいることも出来なかったので、兄に送ってもらい、実家に帰りました。
本当は最期を看取りたかった。
最後の最期をおくってあげたかった。
今、この時代
最後の面会も叶わずお別れした人がどれくらいいるのだろう…
最後に会えただけでも感謝をしなくては…
そう思うだけで精一杯でした。
それでも、やっぱり悔しかった
ここにいるのに!
こんなに近くにいるのに
最期を看取ることなく母から離れないといけないなんて・・・
仕方がない・・・
ただただ、仕方がなかったのです
実家に戻った後は、その後の準備のために
布団を探したり、仏間を片づけたり
そして、しばらくして
父からの電話で母が旅立ったことを知りました。
19:44でした。
私を送った後病院にとんぼ返りした兄は
あと少しというところで間に合いませんでした。
父と義姉が母の最期を看取ってくれました。
最期はとても穏やかだったそうです。
母の横で明かした2晩
17日の夜遅く、母は帰ってきました。
19日に出棺とお通夜が決まったので
2晩は母と過ごすことができました。
布団を隣に並べて2晩過ごしました。
母の顔はとてもきれいで、本当に寝てるようでした。
見覚えのある寝顔です。
帰ってきた直後はまだ暖かくて・・・
でも、次第にそのぬくもりも消えていきました
何度も母にキスをして
ハグをして
「アイシャドウ、お揃いにしようね。
キラキラ、きれいでしょ・・・綺麗だよ・・・」
そう言いながらアイメイクをして
ただただ、泣きました
よく、なくなった直後は泣けない、
悲しみはあとからやってくる、そう言います。
私には当てはまらなかったようです。
この涙については思うところがあるので
またの機会にお伝えさせてください。
母が家にいる間、
本当に多くの方が母とのお別れに来てくださいました。
母が生前よく言っていたことがあります。
それは
「人が来ない家はつまらん。
誰でもいつでも来れるような家にしてないと。」
だから実家には常にお客さんがいたような気がします。
どんな時でも笑顔で迎えてくれて
ゆっくりお茶しながら話をきく。
そんな母でした。
なので、来てくれた方が口々におっしゃいます。
「お母さんにいろいろ話を聞いてもらってたんよ。」と。
父の友人も、最初は父に会いに来ていましたが、
そのうち母に会いに来てくれるようになっていました。
噂話や陰口が嫌いな母だったので
話す方も安心して話ができたのではないかなと思います。
誰からも愛され、信頼される
そんな母でした。
だからこそ、こんなご時世でもたくさんの弔問客があったのだと思います。
出棺(火葬) ⇒ お通夜 ⇒葬儀
私の実家の地域ではお通夜の前に火葬します。
(今住んでいる下関では葬儀の後出棺なので、
最初は日にちが間違っているのかと思いました。)
葬儀の後の出棺だと、葬儀で飾られたお花を棺に入れて
キレイなお花で囲んであげることができます。
でも、出棺が先だとそういうわけにはいきません。
葬儀屋さんがお花を用意してくださっていましたが、
やはり少ない。
本当はお花屋さんになりたかったくらいお花が好きだった母。
たくさんのお花を入れてあげたくて
庭に咲いていた皇帝ダリアや、数種類のお花を摘んで入れてあげました。
他にも鉄火巻きや亀の子せんべい
お遍路さんの衣装や杖など、いろいろ添えて・・・
その後の記憶が少し飛んでます。
気付いたら、出棺の父の挨拶でした。
自治会のみなさまに見送られ、火葬場へ
父が火葬のボタンを押した瞬間が今でも鮮明に映像が浮かびます。
火葬を終えた後で、お通夜です。
「母を送る時は着物を着る」
これだけは昔から決めていました。
母がそうしていたからです。
母自身も着物で見送られたいはずだという確信がありました。
なので、義姉と一緒に着物をレンタルし、着付けてもらいました。
「通夜は色無地に黒帯」
「葬儀は黒」
私は薄いピンク、義姉は薄い紫の色無地を。
色無地に黒帯の組み合わせは初めてでしたが、着て良かったです。
きっと母も喜んでくれたと思います。
お通夜も葬儀も、流れ焼香といって、
参列者は式に参加することなく、基本的に焼香のみ。
どちらにもたくさんの方に来ていただき、
電報や青果などもたくさん届きました。
みなさまのお心遣いに、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
悲しみの底から本気の笑顔になった瞬間
~コントよりコントらしい出来事~
葬儀を無事に終え、納骨の前に簡単な「おつとめ」がありました。
(お経を読むことを「おつとめ」と呼んでいます)
ちょっと席に着くのが遅れたんです。
おつとめが始まった直後に少し慌てて席に着きました
・・・いや、着こうとして、喪主である父の前を過ぎた瞬間
事件は起きました・・・
つまずいたんです。
そう、つまづいたんです。
ただそれだけだったのに・・・
つまずいたところを振り返るとそこにあったのは・・・
左足の草履の底!
私の左足にはちゃんと草履があります。
でも、その底が取れてたんです!
そんなことってあります????
慌てて草履の底を取って席に着きました。
何事もなかったかのように、取れた草履の底の上にちゃんと足をのせました。
問題はその次です。
焼香で前に行かねばいけません。
当然歩きにくい。
当たり前ですが、普通に歩けばガタガタです^^;
そこは私トレーナーですから。
左足だけ爪先立ちで何事もないように歩きます。
そしていざ、お焼香で母の遺影の前に立った、その瞬間
もうおかしくて、おかしくて!
マスクの下で、声こそ出てないですが、大笑い!
満面の笑みですよ
「ちょっと!こんなことってある???
ウソでしょ(笑)ちょっと、おかしいんですけど~(爆笑)」
心の声で母の遺影に語りかけましたよ(笑)
そしてまた、何事もなかったかのように会釈をし、席に戻りました。
ちょっと、想像してみてください。
私が前に出ている間、私の椅子の前には片足分の草履の底が残されてるわけです(笑)
座っている間も、そこにのせていた足が微妙にずれてたそうです^^;
そこを指さし息子を見る旦那さん・・・
(全然気づかなかったけど)
息子曰く
「おかん、やったな、と。俺はあの時うつむくことしか出来んかった」
他にも
「笑っちゃいけないと思ってるんだけど、
あんなことになった後でも『何かありまして?』
みたいな顔で何事もなかった顔しているのが、
もうおかしくておかしくて・・・(笑)」
「笑っちゃいけんのだけど、おかしかった」
「肩が震えた。笑いをこらえるのに必死だった」
などなど、後から聞きました^^;
まさに「笑ってはいけない」ですよ!
当の本人はみんな何が起きたのか知ってるなんて、思ってもみない。
自分一人で大笑いしてたけど、まさかあんなに笑われてるなんて(笑)
ホント、こんなことってあります???
それまで本当に悲しくて悲しくて。
悲しみのどん底にいたんだと思います。
でもね
「もう十分泣いたから、そろそろ笑いなさい」
そう母が言ってくれたんだと思います。
お蔭様で、それをきっかけに気持ちが切り替わりました。
まだ、涙は出ます。
悲しいのは悲しいです。
寂しいのは寂しい。
でも、前に進む道に戻った、そんな出来事だったんです。
きっと法事のたびに言われるでしょう。
私も一生忘れることはないでしょう。
悲しむだけ悲しんだら、笑え
笑顔が助けてくれる
身をもって体感しました。
泣いても良いから、それ以上に笑って過ごす人生でありたいと願います。
その後、無事お墓に納骨し、22日に初七日を行い、
28日まで実家で過ごすことができました。
「愛されている」ことへの感謝
実家にいる間、私は「娘」でした。
「お母さん」でも「トレーナー」でもなく、「娘」でした。
自分が「母親」であることを忘れるくらい・・・
これも家族の理解あってのこと。
「早く帰って来い」など、一言もなく
やりたいようにやらせてくれた旦那さんや家族には感謝しかないです。
納棺に間に合うように駆けつけてくれた旦那さんと息子
学校の都合で葬儀に間に合わなかった娘二人を連れて来てくれた西田井の両親
一旦下関に帰った後、週末迎えに来てくれた旦那さん
そして、悲しみのどん底で気持ちも乱れているときに寄り添ってくれた師匠や友人たち。
心が温かくなりました。
本当に本当にありがとうございます!
母との別れはとても悲しいものですが、
これだけたくさんの人から「愛されている」と実感できるなんて
めちゃめちゃ幸せな事です。
人の愛ってめちゃめちゃ暖かい・・・
柔らかな、包み込んでもらえるような暖かさ
いろんなことが起きて
いろんなことを感じて
そして時間が経ち
やっと気持ちが落ち着いてきた気がします
今、12/12(日)
やっと母との別れについて、書き終えることができました。
長かったでしょ~(笑)
決して読みやすい文章でもなかったと思います。
本当は先月のうちに書き終えて、
さぁ、下関に帰ってきたので完全復活です!
って、言いたかった・・・
出来なかったですね^^;
書きながら涙も鼻水も出るし
書く気持ちになれないときもありました。
それでも、
書き終えたころにはきっと気持ちが落ち着いてるだろう
そう思いながら、今に至ります。
はい。落ち着いてきてます。
たくさんご心配してくださった皆様
本当にありがとうございますm(_ _)m
今日からまた、ブログも再開していきますね^^
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
西田井恭子、復活です!
引き続き今後ともどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
最後に母へ
森脇家の嫁としても
父の妻としても
私達の母としても
1人の女性としても
どれをとってもとても母さんにはかなわないよ
最後の最期までたくさんのことを教えてくれて
ありがとう
たくさんたくさんたくさんたくさん愛してくれて
ありがとう
これからきっと私たちを守ってくれるんだよね
ありがとう
よろしくお願いします
母さんから教えてもらったことは子供たちにつないでいきます
心の底から感謝の気持ちと愛をこめて
母さん、ありがとう
どうか、安らかに・・・
恭子より
恭子さん、お辛かったですね。
お母様 皆さまに愛されていてお幸せですね。
ご冥福をお祈りします。
多美子さん
ありがとうございます!
本当に愛にあふれた母でした。
たくさんの方に愛されてるって素敵ですね。
私も前に、進みます^^
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